中島敦『山月記』解説と問題と感想|私は特別だと信じる人は虎になる

※引用はすべてちくま文庫『中島敦全集1』による

目次

あらすじ

 

 詩人として有名になれなかった李徴は、発狂し行方不明になっていた。

 李徴の友人・袁傪は虎になった彼と再会する。

 虎になったいきさつを語る李徴。誰かが自分を呼んでいる声を追って走るうちに虎に変身していたと言うのだ。

 いずれ完全な虎になり人間の心が消えることを恐れた李徴は、袁傪に詩を書き留めてほしいと頼む。

 さらに妻子の援助を願った後、二人は別れる。

 袁傪が振り返ったとき、月に向かって咆える虎の姿を見た。

 

 

問題・疑問点になりそうなところ

KKc
ここでは試験などで問われそうなところや、疑問点になりそうなところを挙げ、Q&A形式で書いていきます。

 

『山月記』100字要約

李徴は詩人になれず発狂し消えた。袁傪は虎の李徴と再会する。そこで李徴は自分が虎になった原因は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だと理解する。虎として生きることを受け入れた彼は袁傪と別れ、月に向かって咆えた。
(99字)

 

『山月記』の暗喩

  • 虎=尊大な羞恥心のこと
  • 猛獣使い=感情をコントロールすること
  • 頭=心のあるところ
  • 珠=優れた素質(才能)がある人物のこと
  • 瓦=平凡な才能の人のこと
  • 土砂=獣らしさ
  • 古い宮殿の礎=李徴の中にある人間の心
  • すでに白く光を失った月=李徴が人間の心を消失してしまいつつあること
  • 月の光=李徴の人間としての理性

李徴の詩作について

 

Q.袁傪は李徴の詩をどのように評価したか?
A.高級で構成もすばらしい非凡な詩であるが、一流かと言われると何か足りないものがある。

 

Q.袁傪が感じた「李徴の詩に足りないもの」とは何か?
A.他者に対する思いやり。李徴は自分のことを第一に考えていたので、人に感動されるような詩を作れなかった。

 

Q.李徴が詠んだ漢詩はどんな内容か?
A.偶然獣になり、友人の今の身分とはぜんぜん違った、悲しみの中に生きているという内容。

 

臆病な自尊心と尊大な羞恥心

 

Q.臆病な自尊心と尊大な羞恥心とは?
A.自分に才能がないことを認めることが怖くて、他人と切磋琢磨せず強がっていること。

 

  臆病な自尊心=自尊心はあるが、失敗を恐れて、臆病になってしまうこと。
  「臆病な」とは、自分の才能に自信を持ちきれず不安なので、先生について勉強したり、詩を学んでいるような友だちと交際したりすることを避ける気持ちのこと。傷つくことを過剰に恐れる心理状態。それゆえ李徴の才能は磨かれなかった。
  「自尊心」とは、李徴が自分には才能があると確信していたこと。だから彼は平凡な人たちを見下していた。
  これらが組み合わさった「臆病な自尊心」を人間だったころの李徴は持っていた。

 

  尊大な羞恥心=羞恥心があるが、隠そうとして、尊大になること。
  「尊大な」とは、虎になった李徴の見た目を表している。他人に誇れるような外見である。
  「羞恥心」とは、虎になった自分を恥ずかしく思う李徴の気持ちを表している。
  これらが組み合わさった「尊大な羞恥心」を今の虎になってしまった李徴は持つ。

 

KKc
 ※「臆病な自尊心」も「尊大な羞恥心」も、それが引き起こす行動としてはいずれも「人と交わりを避け」ることになっている。

 

李徴が虎になったことについて

 

Q.李徴は自分が虎になったことをどう思っているか。
A.自殺を考えるほど、不合理な運命に対して絶望している。

 

Q.李徴が虎になった理由は?
A.臆病な内面を隠すために虎になった。内面と外面の裏返しである。

 

Q.李徴が虎になった理由を「猛獣」を用いて説明せよ。
A.李徴が「人間は誰でも猛獣使いである」と語るように、人はみな自分の欲望をコントロールしなければならない。李徴はそれをうまく制御できなかった(飼い太らせてしまった)ため、虎になってしまった。

 

Q.闇の中から呼ぶ声とは何のことか?
A.李徴自身の自尊心。

 

Q.人が虎になるということで作者・中島敦は何を言いたいのか?
A.存在することは不確かなものである。
  人生とは苦しいことが絶え間なく続くことである。
  芸術だけを追い求めていても幸せにはなれない。
  自己中心的な考え方は身を滅ぼす。
  豊かな心を持った人だけが詩人として成功できる。

 

Q.「理由もわからず押付けられた~さだめだ」には李徴のどのような心情がこめられているか?
A.虎になるという異常な事態になってしまったことに驚きながらも、その運命を受け入れなんとか納得しようとしている心情。

 

Q.李徴が自分の「人間の心がすっかり消えてしまう」ことに対する気持ちはどうであったか?
A.「しあわせ」なこと→己の残虐な行いの跡を見、己の運命を振り返らなくてもすむこと
  「恐ろしい」こと→人間、詩人への未練。 運命に引きずられる不安。

 

Q.「おれの毛皮のぬれたのは夜露のためばかりではない」としたら、何のためか?
A.李徴の流した涙のため。

 

李徴の性格・人物像

 

Q.最初の段落から、李徴はどういう人間だといえるか?
A.広く学問の知識があり、優れた才能を持っているが、協調性がない。
  自信過剰でプライドが高く、他人を見下すような人物。

 

Q.李徴が「おれ」と「自分」を使い分けるのはどういうときか
A.客観的に語ろうとしたときに「自分」を、主観的に語ろうとしたときに「おれ」と表現している。
  「人間に還る数時間」がだんだん短くなり「獣としての習慣」が大きくなるにつれ「おれ」が多くなる。
  内部の獣(虎)に李徴が支配されている時には「おれ」を用いている。

 

李徴と袁傪の関係

 

Q.袁傪と再会したときの李徴の気持ちを答えよ。
A.虎という醜悪な姿を見られたくない、また恐怖心を起こさせたくないと思う気持ちと、旧友と話したいという気持ちが混じっている。
  虎の姿を恥じる気持ちと旧友を懐かしむ気持ちが入り混じった気持ち。
  (李徴は虎になっても自尊心が強いことが示されている)

 

Q.李徴と袁傪は昔どのような仲だったか?
A.李徴は友達が少なかったが、その中で袁傪は最も親しかった友達。

 

Q.李徴と袁傪が仲がよかったのはなぜか?
A.温和な袁傪の性格が峻峭な李徴の性情と衝突しなかったから。
  (そのため李徴の臆病な自尊心が傷つけられることがなかった)

 

Q.李徴が袁傪にした3つの依頼とは何か?
A.詩作を書き留めてほしい。
  妻子の援助をしてほしい。
  丘の上から虎になった自分の姿を見てほしい。

 

Q.李徴が袁傪に自分の姿をみてほしいと頼んだのはなぜか?
A.袁傪に再び自分に会おうという気持ちを起こさせないため。
  自尊心や羞恥心を捨て、ありのままの自分を見てもらおうと思ったから。

 

Q.李徴が最後に咆哮したのはなぜか?
A.完全に虎になる前に旧友・袁傪に会えたうれしさのため。
  人間への未練を捨て切ったから。

 

KKc
※残月の光の下で始まった物語は、光を失った月を仰いで咆哮する虎の姿で閉じられた。

才能と努力について

 

Q.李徴の語る「空費された過去」とは、具体的にはどういうことか?
A.自分の才能を刻苦して磨こうとしなかったこと。

 

Q.李徴が「虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた」ことは何か?
A.才能が乏しくてもそれを専一に磨けば大成すること。

 

李徴にとっての役人と詩人

 

Q.李徴が退官し詩作にふけったのはなぜか?
A.下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたから。

 

Q.李徴が退官してから彼の生活はどうであったか?
A,文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなった。

 

Q.李徴がまた役人になったのはなぜか?
A,妻子の衣食のため。己の詩業に半ば絶望したため。(あとの半分は未練があった)

 

Q.再び役人になってからの李徴の様子はどうであったか?
A.かつて馬鹿にしていた同輩の命令を受け、自尊心が傷つく。
  楽しい気分になれず、わがままが抑えきれなくなった。そして発狂し姿をくらました。

中島敦の他作品との関連

 

Q.『山月記』と『文字禍』の共通点は?
A.中島敦は『山月記』のほかに『文字禍』という作品も書いています。
『文字禍』の主人公は文字を研究する博士です。最期は文字が記された石版におしつぶされて死んでしまいます。
『山月記』の主人公は文字を使って詩を作っていました。その夢は破れ、人間としての死を迎えます(虎になる)。
『山月記』と『文字禍』の共通点は、どちらも文字によって(人間としての)命を落としてしまうことだと私は思いました。

 

李徴の読んだ漢詩について

 

KKc
李徴は袁傪と再会したときの気持ちを漢詩にします。そこで詠まれた彼の気持ちは、どのようなものだったのでしょうか。

 

書き下し文

 

 偶狂疾に因り殊類と成る(たまたまきょうしつによりしゅるいとなる)
 災患相仍って逃るべからず(さいかんあいよつてのがるべからず)
 今日の爪牙誰か敢て敵せん(こんにちのそうがたれかあえててきせん)
 当時の声跡共に相高し(とうじのせいせきともにあいたかし)
 我は異物と為る蓬茅の下(われはいぶつとなるそうぼうのもと)
 君は已に軺に乗りて気勢豪なり(きみはすでにようにのりてきせいごうなり)
 此の夕べ渓山明月に対して(このゆうべけいざんめいげつにたいして)
 長嘯を成さずしてただ嘷を成す(ちょうしょうをなさずしてただこうをなす)
 (33頁)

 

現代語訳

 

 思いがけず狂気にみまわれて獣となってしまった
 災難と病気とが重なり、逃れることができない
 いま私の爪や牙にかなうものはない
 現在君も私も、ともに世の評判が高い
 だが私は獣となって草むらにおり
 君は身分が高く、車に乗るくらいだ
 今夜、山や谷を照らす月に対して
 私は詠うこともできずただ悲しく咆えることしかできない

気になった表現・文章

時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。
(34頁)

 

 この文章が気になった理由は三つあります。

 ちくま文庫『中島敦全集1』で『山月記』を読んでいると、ページをめくった瞬間にいちばんはじめに目に飛び込んでくるからです。だからインパクトがあり、心に残りました。

 

 二つ目は、口ずさみたくなるようなリズムで言葉と句読点が選ばれているからです。実際に私は何度か声に出してしまいました。

 

 最後の理由は、ここで物語が変化するからです。「暁の近きを告げていた」とは小説が終わりに近づいていることを暗示しています。また、ここを境に李徴が自分のことをより深く分析できるようになっています。妻と子どものことを考えられるほどの思いやりが生まれてきています。虎になったことでかえって人間らしくなるなんて、と私は面白く感じました。

 

読書感想文

KKc
『山月記』について感想を100字、原稿用紙3枚(1200字)と5枚(2000字)で書きました。参考になれば幸いです。

 

感想を100字で

李徴は「努力は恥ずかしい」と思い何もしませんでした。そして虎になりました。その姿も「恥ずかしい」と思っています。やらなければいけないことをやらずにいるともっと恥ずかしいことになるのだな、と思いました。

 (100字ぴったり)

 

原稿用紙5枚(2000字,100行)

 

KKc
 「虎になった李徴は運命を受け入れる」

 

 『山月記』を読んで気になったところは三つあります。
 はじめに目についたのは「分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」です。

 

 李徴がこの言葉によって言いたかったのは、この世界は出来事の理由は絶対に見つからず、それでいて理不尽であることであふれているということだと思います。

 

 李徴が虎になってしまったことには、どう考えても納得できる理屈はありません。どれだけ思い悩んでも出口がないとわかっているならば、それについて答えを探すことは時間のむだでしょう。

 

 李徴は理由を欲しがることをやめるために、このセリフのように「生きものはみんなそうだ」という法則のようなものを生み出したのです。

 

 つぎに目に留まったのは「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。」です。

 

 李徴は自分の才能について確信が持てませんでした。詩について必死に努力すれば、ひょっとしたら何かいいことがあったかもしれないのに、何もしませんでした。なまけ者です。
 また、李徴は心のどこかで「自分はひょっとしたら才能があるのではないか?」と思っていたので、普通に詩を学んでいるような人たちの仲間に入ることもできなかったのです。「こんなレベルの低いやつらとなんか一緒にいられるか」などと、他人を見下しているような人に友だちができないのは当たり前です。

 

 李徴はこの「己の」からはじまるセリフのような心の持ちようを「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」と名づけます。そしてそれらを直そうともせずに「飼いふとらせ」たので自分は虎になったのだ、と説明しています。

 

 彼は先ほど「押付けられたものを大人しく受取」ると言っていたにもかかわらず、虎に変身してしまった理屈をここで述べています。口では諦めたように言っていても、心の底ではあきらめきれなかったのでしょうか。

 

 すぐあとの文章「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」も私の注意をひきました。

 

 これは李徴が人間だったころ、詩の努力をしないための言い訳でした。李徴の理屈っぽさが伝わってくるような言葉だと思います。

 

 さて私が選んだ「分らぬ。」は、生きものは生まれたときから「押付けられた」運命を黙って生きなければいけない、というものでした。

 

 「己の」と「人生は」は李徴が自分の生き方、人生について理由や理屈をつけようとして発せられた言葉でした。

 

 これらを総合すると、李徴は生きることは理由がない、理不尽なものだとわかっていながらも、自分についてだけはなんとか理屈をつけようと思い、苦しんでいたのだと思いました。
 むずかしく言うと、不合理のなかに生きているとあきらめつつも合理的であろうとする李徴の意地を、私は読みとりました。「自分の人生には意味があるんだ。理由があるのだ」と彼は必死にもがいていたのだと思います。

 

 でもそれは意外なことに物語の最後で変わってしまいます。李徴の思いは、外見と同じように虎に近づく形で変化をとげました。

 

 袁傪に虎となった自分を見られるのをとても恥ずかしく思っていた彼ですが、別れぎわに姿をさらします。そして月に向かって咆えました。

 

 李徴は人間だったときのように自分に「押付けられた」運命について考えることをやめ、虎すなわち「生きもの」らしく「大人しく」自身に起こったことを受け入れることにしたのです。咆えたのは彼の決意の表れです。

 

 外見が虎になった李徴は、袁傪と出会ったことで内面も虎になる勇気を得ました。

 

 というわけで、私も彼のように、自分に起こったことに文句を言うばかりでなく、それを受け止めて行動していこうと思いました。

 

 『山月記』、とても面白かったです。

 (90行,原稿用紙4枚と10行)